
I-SA・LIFE
成田⇒ロサンゼルス⇒リマ―オアシスの町イマ⇒ナスカ(地上絵)⇒
クスコ(標高3,400mインカ帝国の首都)⇒巨石文化遺跡⇒
マチュピチュ⇒クスコ―ウマヤ湖(古墳遺跡)⇒
プノー市ーチチカカ湖(トトラと称する草で作った島で住む民)⇒リマ[市内観光]⇒ロス⇒成田









初日:
往路の機上で或る同行者から
「日本人の海外旅行先のベストワンはピラミットからマチュピチュに変わったらしい」
「その理由は大勢行き過ぎてエジプトに行く人が居なくなったから」
とまるで落語の「落ち」もどきの話を聞いた。
私は何処が一番かには関心ないが女房が数年前からマチュピチュに執心で今回も
「牛に引かれて善光寺参り」で長躯20時間超、超満員でエコノミー症候群と苦戦しながらペルーのリマに初めて着いた。
この国には一昔前の左翼ゲリラとの内戦や日本大使館占拠事件の暗い記憶があっても
フジモリ元大統領のイメージや過って数年間一緒に働いてくれた日系二世の方々との交流を通して素朴な親近感がある。
観光のメインはインカ帝国の
「カミソリも通さない精緻な巨石文化と空中都市マチュピチュ」
だが日本の3.5倍の国土とジャガイモ、トウモロコシ、トマト等の原産地だから漠然と緑滴る大農業国の一面もあるのではと想像してたが南緯12度で国土の半分以上が熱帯雨林、人々は残りの砂漠地帯と3,000mの高地の生活で緑豊かな平野には程遠く、此れまでに訪ねた国々のイメージが前と後でも僅差なのにここは大差だった。
又ツアー総勢19名の構成が釧路の夫婦、大宰府の女性二人、奈良の親子4人、松本の夫婦、茂原の父と小学4年の男子、横浜の夫婦、都内の親子3人と全国区なのが珍しく長旅でも話題に事欠かなかった。
二日目:
午前1時過ぎにチェックインし仮眠もそこそこに4時起床で空港へ、ホテル代が
勿体ない。最初の訪問地イカ市は砂漠の真っ只中で周辺にピラミッドの様な砂山が彼方
此方にキラキラと拠立し低くて浅黒い町並みとの対照の妙がある。
樹木は大半がコアラは食べないユーカリで砂漠や高地で育つので全国隈なく植樹したらしい。
それと家屋は精々二階建てで居住も営業もしてるのに殆ど建築途上の態様をしている、
これは完成したら課税されるので節税用カモフラージュと聞いた、生活の知恵の堂々
たる脱税のオンパレードでありこの風景はユーカリ同様に行く先々で見受けられた。
ランドクルーザーでの山登りが観光の目玉らしいがスキップし、唯一残っているワカチナというオアシスに行き周遊する、度々映画で見たシーンの通りで「水は油より高い」
中東の文化に似て「水は唯」の日本の文化との違いを実感しつつナスカ市に向かう。
地上絵を空から見るのもビッグエベントで期待してたが実物は見合い写真以下で感動は少なかった。当初は快晴の下12人乗りのセスナ機で快適な遊覧飛行だったが目的地上空に来た途端にパイロットが「蜘蛛」「鳥」など英語と日本語を交互にがなって体が真横、仰向き、俯きになるくらい左右への急旋回と急上昇、急下降を繰り返して絵を見せるサービスに乗客は殆どグロッキー、絵も思ったより小さく眼前に巨大絵が迫って来る迫力を期待してたが外れた。私は幸い写真を撮る余裕はあったもののまともな写真は皆無で優雅で豪快な空中散歩ではなかったからだろう。
でも飛行前に土産物屋の親父さんの地上絵の謎を暦説として自作のカレンダーを売る為のビデオ付解説が面白く3ドルで買ってきた。空港の芝生に寝転んで暫し時差ぼけを解消しリマに戻る。
三日目:
早朝ホテル周辺散策、リマには高地への観光専用軌道が一本のみで交通手段は車中心で早朝でも車の洪水だ。朝食でドナという果物(果肉は真っ赤でスイカの味、種まで食べれる)を初体験した。
空路で第二の都市クスコ(インカ帝国の首都、巨石文化の中心地)に着く、ここは標高3,400mで高地滞在が始まる。盆地一帯に広がる屋根が黄茶色に統一された美しい町、人口30万、素通りし最初の「遺跡サクライワマン」に。
此処は巨石の要塞で石切り場は遥かな山越え谷越えで確認されているが轍を利用した痕跡が無く文字も無い文化だったので一個360tもある石をどうして運んだのか諸説紛々のままらしい、
今日から加わった現地ガイドのM氏(日本人、40歳くらい、本職はアンデスのトレッキンガ-)曰く「高々15~16世紀で近代に近い文化なのに記録が無いのでガイドブックに載っている定説も推論だ、最後まで自説でガイドする」と前置きしたのに好感が持てた。
彼の運搬説は人海戦術と梃子プラス名は忘れたが近辺に自生する葦に似た草を縒った縄だった。
次の「ケンコー遺跡」は神殿で岩盤を刳り貫いた技術が光る。
市内に戻り宮殿跡に現存する壁など究極の石積文化を堪能する。西洋の観光客がカミソリ
が本当に通るかと実験して逮捕された事が有るらしい、カミソリが通ったか否かは聞き漏
らした。
それにしても大陸の半分を統治した大インカ帝国滅亡の理由はスペイン人が持ち込んだ疫病の蔓延と雑学的な記憶だったが実際は高々200名(内戦闘員は150名)のスペイン軍に奸計で絶対君主の王を捕らえられ後は指導者不在、宗教上の理由で夜は戦わない、ジャングルは暗くて怖いからゲリラ戦はやらないの理由で強大な軍隊が張子の虎のままであっけなく瓦解したのがスペイン側の記録に残る真相で世界戦史上でも稀有な事例だろう。
この日の宿泊地はウルバンバで大陸の反対側まで続くアマゾン河の源流に沿った山峡にあるコテージ風のホテル。
高地旅行の注意をM氏から聞いていたのにこの夜は暴飲暴食してしまい夜半から嘔吐、下痢を発症してしまいM氏の高山病診断器(血中の酸素量測定器)は初期症状の見立てだったが年甲斐も無く高地順応への過信が招いた大失態だ。
四日目:
高山病の特効薬は水分補給と腹式呼吸に優るものは無いらしい。朝方ウトウトした程度で朝食抜きでバスに乗る、薄めの健康飲料水をチビチビ飲んで小康を保っていたが
オリャンタンポ遺跡への悪路は時化時の小船の如くで見学開始して程なく神聖な場所で胃袋を空にしてしまい一人待ち合わせ場所に戻って地元民の土産物屋開店準備を眺めながら
休養。
此処では最大の巨石群、頂上が見えない程の石の階段、絶壁の中腹にある見張り場などに較べ遥か彼方の山腹一帯に白く広がるマラス塩田が記憶に新しい。この国の食塩は大半地底から湧出する温塩水を日干して作られる由、美味で少々買って帰った。
此処からは天井ガラス張の観光専用列車で本命のマチュピチュに向かう。
この国はリマ/ワンカーヨ間の観光専用線とクスコを挟んでマチュピチュ行きとプーノ行きの路線しかない。
この軌道はマチュピチュ発見後直ちに建設されたらしくこの地の観光開発が重要施策だったに違いない。狭軌で時速30キロ程度、車中での無料飲食サービスは我慢し水分補給しながら専ら車窓の風景に没頭する。
アマゾンの源流に沿って約2時間、ユーカリ主体の雑木林から徐々に樹林の密度が濃くなり終点近くは略々熱帯雨林だ。両岸の狭い土地にはトウモロコシやジャガイモなどの畑が点在し勤勉な国民性が窺われたが聞けばトウモロコシは収穫後2/3年は茎を抜かず残した実の自然落下で再生産してるとのこと、ズングリした太い房の大粒種で何処ででも料理に出た。マチュピチュの町は人も多く活気あり。専用バスで高低差500米、擦違いが窮屈な砂利の電光道を登り切って宿舎のサンクチュアリロッジ前に到着。
女房が選んだツアーの目玉がこのホテルで大半が遺跡見学が数時間の日帰りコースだがこのロッジに泊まれれば二日間遺跡の出入り自由の豪華版である。チェックインは後回しで荷物を預け早々に空中都市に入る。映像や写真で見慣れた光景が目の前に広がり来て良かったと実感した。
M氏のこの遺跡が誰が、何の目的での解説(帝国の離宮説で無く薬草栽培施設説だった)に納得したのは総法面積5平方キロの2/3を占めて絶壁に近い山肌の四方に整然と並んだ段々畑(アンディオス)だった。この重量感、立体感ある景観は映像の比ではなく感動した。水腹で体調不良に無理は禁物、小一時間で切り上げ一人ベッドで休養を取る。
程なくして添乗員が携帯用のお茶漬けをサービスしてくれ旨かった。体力を持ち直したので日暮れ前に女房の案内で遺跡に入り一巡する、夕立の後の吹き上がる雲の様や遥かなアンデスの名も知らぬ高峰群も楽しめた。
このホテルは翌朝9時までは飲食一切自由なのに大事なときに酒好き、大食漢の特権を行使できず高級洋酒の並ぶ棚が恨めしくこの旅最大の悔しい思い出でとなった。
五日目:
体調まずまずで再び入場。数10頭のリャマが放牧されていて人なつっこく並んで写真が取れた。写真でお馴染みのワイナピチュ(若い峰に意)と名のある前穂高のジャンダルム似の山の真正面で観光用写真の撮影場所と思しき所に一時間程腰を据え遺跡の俯瞰と周辺の景色を楽しんだ。
実はこの山に登る計画だったが断念、飽きるほど見たので半分は元を取ったつもりになる。10時に集合してインカ橋までハイキングをした。途中に正真正銘の「わらび」を発見、夫婦してわらび獲りが大好きなので興味深々、こんな高地に生えるのが不思議でならない、ひょっとしたら原産地かもと?帰ったら孫の図鑑で調べようかと思いつつまだ調べてない。珍しく百葉箱が設置されていたがM氏に依れば設置方法に問題があってデータは当てに成らないらしい、インカ橋はとても荷物を担いでは渡れない様な絶壁の襞に架けられていたが(今は歩けない)空中都市の住民の秘密の逃げ道で渡り終えてから橋を外すという奇策というか必死の産物らしい。24時間滞在し降りる。
遅い昼食は豚と鱒のステーキで鱒をチョイス、ボリュームたっぷりなので半分だけ食べた。乗車時間まで自由行動で街を歩く、市場で赤ん坊の頭くらいのリンゴマンゴを買う。クスコまでの4時間、車両毎に飲食とファッションショーのサービスがあり無料と聞いてたので早速ジュースを注文したら金を請求された、よく聞けば最初の巡回だけ有料とのことで私だけが払う羽目になった。
ファッションショーは実はアルパカ製品の即売会で男女一組が入れ替わり立代わり披露し、冷やかしの値切り交渉で場内騒然、それでも相当数買ったメンバーがいた。
添乗員の計らいで一つ手前の駅で降りバスでクスコの夜景を見た、街灯がダイダイ色に統一されていて街全体が一望でき美しい景色だった。ホテルは修道院を改装したもので古色蒼然、各部屋に所狭しと掛かっていた宗教画は頂けないがこれを除けば情緒満喫、夕食は予約ミスでルームサービス、買ってきたリンゴマンゴが旨かった。
六日目:
高地滞在にも慣れて体調回復、今日は移動中心で10時間のバス旅行、道と軌道が終着駅のプーノ市まで並行してた。この軌道はかっては華やかだったがバスに押され今は不定期で週3往復程度の運行らしく終日列車は見なかった。途中に塀と高い柱、その上に乗かかる不安定な屋根が残るラクチという大きな兵舎跡とインカ以前数代に渉る王朝の石積で円形の古墳群シルスタンを見た。 原型を留めるのは少ないが美しいウマヤ湖沿いの丘陵地に調和してこの旅での屈指の景観で王者の眠りの地に相応しい場所だ。
墓の東側の最下部に人一人入れる程度の口があり、そこに朝日が射し込む時に魂が復活するそうだ。4,300mのラ・ラヤ峠でのトイレ休憩は露天下に立ち並ぶ民像衣装姿の土産物屋との愉快な買物交渉タイムだった。峠を降りた村のレストランで場所だけ借りて食べたこの旅唯一の日本食「お握り弁当」は最高だった。今夜はチチカカ湖畔の白亜のホテルで全室湖上からの日の出が見れるらしく期待して眠った。
七日目:
快晴だが水平線上の雲が厚く日の出は断念。チチカカ湖は富士山より高所で面積は琵琶湖の12倍、約半分は隣国ボリビア領だ。ここプーノ市はボリビアとの密貿易で繁栄してるらしい。ホテル脇の船着場から救命具を着け湖上でトトラ(葦に似た草)で作った浮島に住むウル族を訪ねた。大小40強ある島に800人くらい居住している。
昔は陸にいたが迫害されて湖上生活になったそうで一つの島に数家族単位で住んでいる、学校、病院など必要施設完備で完全自治、家畜も飼っている、観光者が払う訪問料(?)と土産物販売が主たる収入源と思われるがテレビもあり電気は太陽光発電と聞いてギャフンと言わされた。家への出入り、民族衣装を借りるのも自由で女性達は大はしゃぎ、土産物は殆ど此処で買うことになった。
トトラは誠に有用な草で住居、船、家具などの材料や食用にもなる、食べてみたが旨くはない。
但し植物だけに寿命は短く数年で腐るので作り直しが大仕事となる、嘘のような本当の話では住人が喧嘩別れする時は自分の分だけ島を切るそうでM氏は一度頼まれて切るのを手伝ったそうだ。
こんな高地の湖にも鱒などの魚が生息しており貴重な蛋白源だろう。
ここからフリアカ空港へ、有って無きがと言われる時刻表より2時間遅れで出発、途中アレキバに寄りリマに戻った、これで高地滞在も終る。ホテルは大きな抱擁像で名高い「恋人達の公園」の近くで高台の公園から太平洋の波打ち際、白砂の浜辺、絶壁が続きその先がスペイン軍の上陸地点だった、ホテルの一階には立派なカジノあった。
八日目:
今日のリマ市内観光で旅が終わる、まず官庁街のアルマス広場へ、閣議があるのに大統領官邸の警備に物々しさはない、近辺の著名な建造物は素通りし天野博物館に行く、土器、陶器類ばかりか織物類の展示物の豊富さに驚いた、粗末な木製機織り機が展示されてたが素人目でも絞りも含め複雑な二重織りなどはもっと高度な器材を使ってたのではと思う。
天野氏はポンプの発明で財を成し戦時中は米国での「敵性国人収容所」生活にもめげず、
戦後100%自費で建設されたとのこと、遺言で無料開放、運営費は寄付、グッズ販売益、それにボランティアで支えられていた。
遊び心と寄付のつもりでコカ茶とコカ入りキャンデーを土産にしたかったが女房と添乗員の猛反対で断念し、ささやかだが天野氏の著作本を一冊買って協力した。
もう一つ黄金博物館に行き「インカ金」と市場にある金の違いを知った。
市内走行中に真っ赤なピンクフラワー(パンの木の花)を初めて見た。このツアーは不思議に免税店を含め土産物屋への案内がなかった、私に大歓迎だったが女性軍には不満があったようだ、その代り観光を終えて出発までの4/5時間ホテルでの休息が確保されていてこの時間を買物に使いなさいと言う事だろう、カジノで一山当てに行こうか、バスタブに浸かって休むか、チョット考えたがバスタブにした。
九/十日目:
往路と同じくロス経由で成田に着く、失敗が多い旅だったが、唯一の善行だった10日間の禁煙生活を続けるか打ち切るか思案しながら決めかねている内に家に着いた。 終わり
